若さしか取り柄がない!

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メロディー良ければいい、そんなの嘘だと思いませんか?

先日ラジオを聴いていたら、大滝詠一の「君は天然色」が流れてきた。CMソングにもなっていたので聞き覚えがあったが、改めて見るとあまりに綺麗な歌詞なので驚いた。

 

君は天然色

君は天然色

  • 大滝 詠一
  • J-Pop
  • ¥250

 

思い出はモノクローム 色を点けてくれ  

 

サビの一節にこんな詞がある。聴いているだけではわからないが、「点ける」の漢字を当てているのが意味深だ。「電気を点ける」の「点ける」を使うことで、塗り絵のような色付けのイメージというより、スイッチ一つで世界がパッとカラフルになる、プロジェクションマッピングのような雰囲気を感じるのだ。そのスイッチは、やはり歌詞中に登場する「うるわしのColor Girl」、主人公の思い出の女性なのだろう。

 

もう一つ、この歌でとても好きな節がある。

 

渚を滑るディンキーで 手を振る君の小指から

流れ出す虹の幻で 空を染めてくれ

 

たった2行なのに、ものすごい色彩感だ。渚や空の澄んだ水色から、ディンキー(ヨット)の白、波間の飛沫のきらめき、水面に反射する太陽光、風になびく「君」の髪。まるで映画のワンシーンのように想像できる。そして極めつけは、虹の幻だ。主人公にとって、「君」がすべての色の源であるのが感じられる。水際の「君」が手を振るだけで、新しい色が世界を満たしていくように思えたのだろうか。それにしても、一曲の中でモノクロから虹色まで、本当にカラフルである。

 

 

ところで、同じように詞に衝撃を受けた曲に、小沢健二の「夢が夢なら」がある。

 


小沢健二 - 夢が夢なら

 

「夏うた」とか「ウィンターソング」とか言われる曲は数えきれないほどあるが、この歌は1つの季節ではなく、移り変わる四季を1年分丸ごと歌っている。個人的にはそれが新鮮だったし、さらに一つ一つの表現が本当に美しい。というか、むしろ美しくない部分が一つもない。

 

四季というのは、はるか昔からいろんな人が扱ってきた、いわば日本人の美意識の根本ともいえるテーマだろう。それなのに、まだまだ新鮮な季節への視点があることを、この曲で実感させられる。「ダウンジャケット」とか「スクリーン」とか、使っている言葉は現代的だが、個人的にはこの曲は和歌や童謡の系譜に連なるのではないかとさえ思う。オザケンフィルターを通して見ると、現代日本の四季が本当に尊く感じられるのだ。

 

(ちなみに、以前この曲の弾き語りをしようとしたら、転調に次ぐ転調に非常に手こずり、光の速さで挫折した。)

 

 

こうして見ると、詞の世界はとても興味深いと感じる。もっとも、音楽ファンには「詞はなんでもいい、詞が好きなら詩集でも読んでろや」という勢力が一定数いるようだ。しかし、詞は曲との相乗効果を持つ点で、他の文学とは一線を画している。その曲にぴったりの詞(あるいは、その詞にぴったりの曲)がつくことで、文字だけ・曲だけでは表せない深みが生まれるはずだ。インスト音楽が受け入れられている中であえて歌を入れる意味というのは、そういうところにあるのではないかと思う。

 

CD派のボヤキ

音楽を買うなら、断然CD派だ。ジャケットや歌詞カードなんかも、作品の一部ではないだろうか?スピッツの「フェイクファー」なんて、あの乳白色のケースが雰囲気を出すのに一役も二役も買っていると思う。そんなわけで、音源だけのダウンロードはどこか味気なく感じてしまう自分がいる。CDを買ってきて、ワクワクしながら慎重にビニールを開け、ステレオの前で歌詞カードを矯めつ眇めつ初聴する高揚感は、やっぱりCDならではだ。

 

私は、CDバブル真っ只中の96年生まれだ。ちなみに96年のシングル売り上げ1位はミスチル名もなき詩」で、230万枚売れたんだとか。アルバム1位はglobeで、こちらはなんと376万枚以上。数字を見ると、つくづくスゴイ時代だ。

 

とはいえ自分が小さい頃は、まだ多少カセットが幅を利かせていた気もする。昔うちにあった車のカーステではカセットが聞けた記憶があるし、実家の押入れを少し探れば、聞き覚えのある曲がテープに録られてたくさん眠っている(昔の曲を簡単に聴ける時代になっても、親があの大量のカセットを処分しないのは、やはり思い出によるのだろうかと思っている)。

 

話は戻るが、そんなCD時代生まれのせいもあるのかないのか、とにかく音楽はCDで買いたいと思う。ジャケットにはアーティストの個性が出ていて、見ていて楽しい。歌詞カードを隅々まで眺めるのもいい。結局スマホで聴くことが多くても、気に入った作品を手に取れる、部屋に並べておける、人に貸せるというのはやっぱりいい。特に人に簡単に貸せるというのは、軽いように見えて結構大きなメリットじゃないだろうか。90年代の音楽シーンが盛り上がっていたのは、CDが貸し借りできることで、共通の話題に上がったり人気が広がったりしたのが理由の一つではないかとひそかに思っている。

 

そうはいっても、最近の時代の趨勢は、CD派にちょっと冷たい。アルバムはともかく、シングルが配信のみになることは結構多い。スピッツ雪風がそうだったし、調べてみるとLUNA SEAミスチルB’zでもあるようだ。かなり最近のところでは、GLAYの今年のシングル「XYZ」もそう。この曲すごく聴きたいのに、今のところCDが出ていない。DLすればいいじゃん、と言われそうなものだが、やっぱり好きなアーティストの曲は実際に手に取りたいのだ。それに、個人的にその場で代金を支払えないのもイヤである。私のようなだらしない人間には、カード払いは不向きなのだ。

 

もちろん、事情は理解しているつもりだ。配信のほうが低コストだし、スマホ全盛の今は、デバイス一つで完結する方がはかどるのだろう。技術が進歩する以上、淘汰されるものが出てくるのは致し方ない。

 

そんな淘汰される側かもしれない人間として、少し考えてみたことがある。CDを売らないのなら、代わりにアプリを販売したらどうだろうか?音源に加えて歌詞やクレジットが見られ、デザインなど含めて、そのアプリ一つで作品の世界観になっているようなイメージだ。これなら、実際のCDを売るより安そうだし、何よりCDのデザイン性がいくらか残せる。むしろ、紙のデザインとはまた違った楽しみ方もできるかもしれない。音源は、itunesなりLINE MUSICなりで聴けるように連携できるとよりいい。ITには全く明るくないので、こういうことが難しいのかもよくわからないが、個人的にはただの音源よりは、多少割高でもこちらを買いたいと思う。それでも、本当はCDで出してほしいと言いたいけれど…。

 

 

「インディゴ地平線」の年に生まれて

96年にどういうわけか地球上に生まれ落ち、現在人生20年目、華の女子大生である。筋金入りの老け顔で、どこに行っても年上に見られるが、正真正銘のピチピチハタチだ。(ちなみに、老け見えエピソードには事欠かない。大学の新入生だった時、先生に「君は今年卒業するのかい?」と聞かれたり。某ネットコミュニティで年齢詐称を疑われ、40代だと決めつけられたり。留学先の語学学校で「27歳くらいかと思ったw」で満場一致したり。初対面の人からは8割の確率で「大人っぽいですね~」の一言が降ってくる。)

 

さて、そんな老け顔20歳の私だが、90年代のJpopがなんとなく好きで、よく聴いている。ほとんどはヒット曲をYoutubeで聴くくらいでそこまで詳しくはないけれど、中にはファンと言えるくらい好きなアーティストもいる。その一つが、今日30周年ツアーの開催を発表したスピッツだ。ファンクラブに入り、ライブのチケットを必死で取り、新曲の情報を心待ちにする。ダウンロードではなく、HMVやらブックオフやらをまわってCDを一枚一枚集めていく過程が心底楽しい。集めたCDは、自分の部屋のよく見えるところに並べて置いて、眺めてにやけて自己満足に浸る。なんなら将来はスピッツの出す音になって、ライブ会場の空気に溶けてしまいたいと本気で思っている。

 

スピッツのアルバムは、1991年のデビュー作から去年の最新作まで数あるのだが、特に好きなのが7th「インディゴ地平線」だ。96年の作品だから実は自分と同い年。「チェリー」や「渚」といったヒット曲も収録されている。

 

スピッツのアルバムはどれも好きなのだが、なぜ中でも「インディゴ地平線」推しなのか。それは、「インディゴ地平線」というアルバムには、あの時代独特の空気が色濃く閉じ込められている気がするからだ。発表年の近い「ハチミツ」とか「フェイクファー」にもその雰囲気はあるんだけど、「インディゴ地平線」はそれが別格で強いように思う。言い換えれば、個人的に最も強くノスタルジーを感じる一枚なのだ。

 

もちろん、96年やそこらの私自身は、物心もクソもない野性味あふれる幼児で、記憶もほぼない。ノスタルジーを本当に理解しているかも自信がないし、90年代なんてのは、自分にとってはほとんど想像みたいなものだ。でも表題曲の「インディゴ地平線」を聴いていると、子供のころの乾いた冬の一日に、歌の中の果てしない青空があったように思えてくる。「虹を越えて」が流れてくると、小さいころうちにあった車で、開けた道をどこまでも行くような気分になれる。自分にとって「インディゴ地平線」は、幼いころの記憶や感触の断片を、不思議と呼び起こしてくれるアルバムなのだ。

 

このアルバムの中で、最も好きな一節がある。6曲目「ナナへの気持ち」の中の、「街道沿いのロイホで夜明けまで話し込み 何もできずホームで見送られるときの」という詞だ。若いカップルの何のこともない日常なのだろうが、2017年の今、この歌詞と同じことをしても、同じ価値はないだろうと思う。ロイホ自体は今でも健在だし、恋人との徹夜だってありふれた行動だ。きっと今も、ファミレスで一晩を明かすカップルはたくさんいることだろう。それなのに、1996年のこの行為には、なぜか今よりずっと特別な時間が流れているように思う。この一節は、恋人とロイホで語り明かす一晩が今よりずっと濃厚だった頃に、一瞬で連れて行ってくれる気がする。

 

ちなみにこの曲に限らないのだが、スピッツの曲に女の子が登場するときは、彼女がどんな子か鮮明にイメージできることが多い。歌の中の女の子のイメージが、髪型や顔立ち、声色まで、なんとなく浮かび上がってくるのだ。もちろん自分なりのイメージでしかないのだけど、不思議と「きっとこんな人だろう」という気になってくる。そういうところも、スピッツが好きな理由の一つだ。

 

もう一つ、「インディゴ地平線」で不思議なことがある。これだけ時代の雰囲気を感じるのに、なぜか古臭いとは思えない点だ。

 

写真で見る90年代は、いかにも一昔前だ。車一つとっても古いし、ファッションやヘアスタイルも、2017年とは全然違う。「インディゴ地平線」も、そんな時代真っ只中に生まれたはずだ。それなのに「古臭い」「時代遅れ」という言葉が全く似合わなくて、当時の空気を新鮮なまま吸い込んでいるような気分になる。「インディゴ地平線」がノスタルジックだというのは私の主観でしかないけれど、20年前のスピッツの音楽を今でもみずみずしく感じるのは、結構多くの人に共通の感覚なんじゃないだろうか?こういう感覚を覚えさせるところが、スピッツが「色褪せない」とか「永遠の少年」みたいに評される理由なのかもな、と思う。

 

今年は2017年。2000年以後に生まれた子も、早ければもう高校生だ。自分は中高一貫校出身だから、思えば部活の後輩たちにも21世紀生まれがいたことになる。そんなことを考えつつ「インディゴ地平線」を聴いていると、1990年代を少しでも生きたことがちょっぴり誇らしい気がしてくる。