若さしか取り柄がない!

若さしか取り柄がない女子大生もとい社会人が、語ったりスベったりするブログ

日雇いデカルト

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日本に帰国してまもなく2か月が経とうとしている。この2か月にあったことについてはおいおい書いていきたいのだが、とにかく無事に東京での生活を再開したわけである。

 

さて、以前の記事でも書いたが、私は人間関係が得意な方ではない。特にアルバイトでの人付き合いは、パン屋で働いていた時代の思い出のせいで、まったくもって苦手なのである。それゆえ、帰国したあとの私は全く労働することなく、留学中に記事を書いて貯めたわずかな貯金を切り崩しながら、睡眠と麻雀と多少の音楽活動に勤しむクソニートとして暮らしていた。

 

しかし、貯金の底が見えてくるようになるのは思いのほか早かった。予想外の出費があったこともあり、私は想像以上に早く、何よりも嫌いなはずの労働の必要性に迫られたのである。私は仕方なく重い腰を上げ、人間関係に後腐れがなさそうな日雇いの仕事を探すことにした。

 

ところが、ここでもう一つの問題が登場する。頭髪である。

端的に言えば、今の私の髪は青色なのだ。こんな人間が働ける場所はかなり限られている。ティッシュ配りにしたってまともなところでは黒髪が基本のようだし、イベントスタッフもブラウンまで。試験監督は当然NG、引っ越しスタッフは体力に自信がない。

 

こうして消去法をしていくうちに残ったのが、工場でのアルバイトである。背に腹は代えられない。とにもかくにも行ってみよう。

かくして私は、1日中化粧品を箱詰めにし続けるという武者修行を開始したのである。

 

仕事はというと、正直なところ、あんなので時給1100円ももらっていいのか、というような代物であった。立ちっぱなしなのが少々つらいが、空調の効いた部屋で黙々と流れ作業をすればいいというのは、個人的にはかなり良い仕事であった。

 

しかし、慣れてくるとその単調さが仇となってくることに気が付いた。作業中に、とにかくいろんなことが頭に浮かんでくるのである。昨日のバンドの練習をドラムにすっぽかされてすごいやりにくかったなーとか、そういえば今度検便あるなー、うんこってどうやって取るんだろうとか、GLAYのニューアルバムの限定版2万5千円て高すぎだろ、でも欲しいなーとか、とにかくバラエティ豊かな考え事が次々と脳内を占領してくるのだ。

 

そんな中、私はある閃きに、突如として出会うこととなる。雑多な考え事の中でひときわの輝きを放つそれとは、こういうものであった。

 

大人になるということは、より物事を多角的に見られるようになることではないだろうか?

 

雷に打たれたような衝撃であった(むろん手は動いていたが)。「我思う、故に我あり」を閃いたときのデカルトは、さぞかしこんな気持ちだったのではなかろうか?工場の中で突如悟りを開いてしまった自分に、私は多少の陶酔と困惑を覚えた。

 

子供は、自分本位で当然の生き物である。自分が使いたいおもちゃは渡したがらないし、欲望は泣いてでも実現させる。これは生存のための本能的なものかもしれない。

一方で、精神的な意味での「大人」という言葉には、穏やかで、思慮深い人格がイメージされていると思う。感情的に泣いたり怒ったりせず、相手とうまく距離を取りながら生きている、そんな感じだ。では、この二者の間の隔たりはどのように埋まっていくのだろうか?

 

わがままな子供も、他人の気持ちを考えるよう教育されながら大人になっていく。その過程では、自分だけが悪者になる理不尽や、二者の間での葛藤を経験するだろう。そういう経験というのは、いろいろな人の言い分を鑑みて、一つの問題を多面的に考慮する行動を含んでいる。これを重ねていくうちに、自分の中にいろいろな人の視点が取り込まれて、自分の怒りと折り合いをつけたり、より多方面で満足度の高い妥協ができるようになったりする。これがすなわち、大人になるということなんじゃないだろうか?

 

デカルト、もとい私は、誰かにこの閃きを披露したい衝動にかられた。この大発見には、きっと賞賛の嵐が巻き起こるに違いない。ノーベル哲学賞がないのが惜しいくらいだ。

 

しかし、私はこれを、自分のブログにそっと吐き出すことを選んだ。「大人」として、友人たちの「そんなどうでもいい話に付き合わされたくない」という感情を考慮したのである。