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若さしか取り柄がない!

若さしか取り柄がない女子大生が、語ったりスベったりするブログ

トイレットペーパーの生き様に思う

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さっきトイレに行った。用を足し終え、トイレットペーパーを手にしたとき、一つの考えがふと頭をよぎった。

 

 

来世があるなら、トイレットペーパーにだけはなりたくない。

 

 

バカバカしい話だと思うかもしれないが、胸に手を当てて真剣に考えてみてほしい。トイレットペーパーの生涯の、その哀しみを。

 

トイレットペーパーの命は儚い。その製造にかかる時間に比べ、人の目に触れ、使用され、感謝される時間はあまりに少ない。そして、一度トイレに流されてしまったら、その存在を思い起こす人など無に等しい。その様子はさながら、夏の蝉のようではないだろうか?蝉たちは何年と土の中で過ごし、満を持して地上に出ても、わずか7日でその命を散らす。蝉の声を慈しむ日本人は多くいるが、そのうち何人が、土に還っていった去年の蝉に思いを馳せるだろうか?トイレットペーパーの刹那的な姿は、そんな蝉の命の営みと重なるようにも思えるのである。

 

同じ紙類の中でも、トイレットペーパーはダントツに物悲しさを漂わせている。

 

たとえば、普通のコピー用紙。彼らは紙界のエリートである。子供の落書きから重要文書まで、その万能さで右に出る者はいない。保管されるような文書であれば何年も命を長らえるだろうし、子供の落書きに使われたとしても、その子の芸術的情操の向上に一役買っていることは間違いないだろう。コピー用紙はいわば、「やりがいのある職業」みたいなものだ。

 

もっと上流階級なのは、ルーズリーフやノートだ。すぐに捨てられる可能性がかなり低いし、何より勉学に使われる道具だから大切にされる。受験生のノートなんて、きっと何度も読み返されるに違いない(中学時代、ノートで鼻をかんだ猛者がクラスにいたが、あれは例外中の例外だろう)。

 

キッチンペーパーも、トイレットペーパーよりはいい。刹那的であるという面ではトイレットペーパーと近いが、それでもウンコを拭く役よりは、魚の水分を除く役のほうがましに決まっている。

 

トイレットペーパーと唯一タイマンを張れそうなのは、ティッシュペーパーかもしれない。ウンコと鼻水どちらがましかと言われると、多くの人は即断できないのではないだろうか?それでも私は、やはり切なさにおいてトイレットペーパーに軍配を上げたい。というのは、トイレットペーパーは「水に溶けて流される」のがミソだと思うからだ。

 

ティッシュは捨てられた後もしばらく、ごみ箱で余生を過ごす。花粉症の時期なんか、ごみ箱の中には多くの使用済みティッシュたちがひしめくことになるだろう。「いや~、鼻をかまれてゴミ箱にポイなんて、俺たちの人生呆気ないよな」―ゴミ箱の中では、こんな会話が交わされているに違いない。

 

一方、トイレットペーパーはどうだろうか。水溶性という特質をもつ彼らは、余生を他のトイレットペーパーと語らうこともできず、ただ独りで消えていく。自分の人生への弁解も許されず、ただ下水の奥底へ吸い込まれていく、こんな哀しい終わりがあるだろうか?

 

そんなことを考えながら、私は洗面所で手を洗った。鏡には、くたびれたオッサンのようなスッピン顔が映っている。それをぼんやり眺めているうちに、またも考えが浮かんできた。

 

 

人類なんて、トイレットペーパーみたいなものかもしれない。

 

 

またもバカバカしい話だと思うかもしれないが、もう一度胸に手を当てて考えてみてほしい。人類の営みの、その儚さを。

 

一説には、一生物種が生まれてから絶滅するまで、平均500万年と言われているそうだ。人類はというと、誕生してすでに700万年ほど経っているらしい。何億年と地球に生存し続けているゴキブリみたいな例もあるにはあるが、それでも人類はもうすぐ滅亡してもおかしくないのだ。そしてたとえあと300万年人類が続いたとして、そんな人類の1000万年が、宇宙140億年の歴史にとって何だというのか?

 

そう考えると、人間なんてトイレットペーパーの一繊維にすぎない、人類の歴史なんてトイレットペーパーの一ロールみたいなものだ、と思えてはこないだろうか。連綿と続いているように見えて、いつかは終わりがある。そして一度なくなってしまえば、思い出されることもないのだろう。

 

トイレットペーパーは、人類の運命の縮図なのかもしれない。そんなことを考えさせられた、トイレタイムであった。