若さしか取り柄がない!

若さしか取り柄がない女子大生もとい社会人が、語ったりスベったりするブログ

ツツジを吸うことを最初に小学生に流行らせた男

小学生の頃、ツツジの花の蜜を吸ったことがある人はいるだろうか。

私のある友人は、自称「ツツジを吸うことを最初に小学生に流行らせた男」である。

 

f:id:hayasacaesar:20210417001304j:plain

 

この風習は、確かに私の小学校でも存在していた。

当時私が住んでいたアパートの門の前にもツツジが植わっていたので、クラスメイトと吸った記憶がある。

例の彼も私も都内の小学校出身だが、場所はかなり離れている。彼は多摩方面、私は23区内の埼玉寄り、小学生のローカルな流行が伝わるとは考えづらい距離だ。

 

しかしさらに周囲に聞いてみたところ、なんと岐阜と大阪出身の友人もツツジを吸っていたという。そういう意味では、自称パイオニアの言い分を信じるならば、少なくとも東京から岐阜を経て大阪まで伝播していることになる。

小学生にとっての東京-大阪間、それはもはやシルクロードに等しい。彼はシルクロードの起点になっていたのである。長安は多摩にあったのだ。

 


 

今日歩いていると、ガードレール沿いにツツジが満開に咲いていた。

改めて見ると、地面にじかに植えたツツジの木の丈は、大人の膝にも満たない。

小学生の衛生観念というのはなかなかパンチが効いているな、と思ったのだが。

今まで病気らしい病気もしていない一因に、こんな経験の積み重ねがあるとするならば。

この発祥となった彼は、さながらワクチンを広めたジェンナー医師のように偉大ではあるまいか。

 

いつか彼が、教科書に載る日が来ることを祈って。

ツツジを吸っていたあのころから20年、悠久のシルクロードに思いを馳せるのである。

 

未だに若さしか取り柄がない!

前回のブログ更新から3年。「酸いも甘いも噛み分けていい女になったつもりだったんです」そう激白する彼女。

しかし、噛み分けたつもりのものは歯の隙間に全部挟まっていた―。

 

何の身にもなっていない3年の空白。

就活に落ちまくり、祈られ過ぎて自分は出雲大社と錯覚したのが2年前。心なしか神無月には周囲に神々の気配を感じた。

ようやく社会人になったかと思えば、リモートワークで一度も出社することなく1年が過ぎ。

そして今日、私は聴いたのである。

はてなブログガイアが再び呼ぶ声を・・・

 

f:id:hayasacaesar:20210415144045j:plain


 

社会人2年目ともなれば、ちょっと新入社員に先輩風吹かしてみたりしたくなる年頃である。

しかしいまだに続く在宅勤務、風を吹かそうにも吹っ掛ける相手もいない。

加えて、上司の目がないのをいいことに全力で1年間サボりまくった結果、立派な給料泥棒のできあがりである。社会人2年目ってこんなに使い物にならなかったっけ??

 

だが、とても不可解なことが一つある。

それは、腱鞘炎と過敏性腸症候群という、めちゃくちゃ社会人ぽい症状だけはしっかり発症したことだ。上司と直接顔を合わせることもない、イヤな同僚がいるわけでもない、こんなにも生温い環境に生きているにもかかわらず、だ。

 

特に過敏性腸症候群は凄まじく、固形のウンコが出た日には天岩戸からアマテラスが出てきたくらいのめでたさである。これがハレの日ってやつか?

 

過敏性腸症候群はおもにストレスが原因で下痢や便秘を起こす病気なのだが、この環境下でストレスとは、自分の耐性のなさに失意の涙もとい失意の下痢を禁じ得ない。嗚呼、こんなはずでは・・・

 

ここから40年以上社会人としての人生が続くということは、すなわち40年にわたってアマテラスを呼び出すために、ケツの岩戸をこじ開け続けねばならないのか。

社会から逃げ出して閉じこもりたいのはこっちのほうである。

 


 

社会人2年目、ブログタイトルがそぐわなくなる日も近い。

だがしかし、心の中はフォーエヴァーヤング。

日雇いデカルト

f:id:hayasacaesar:20170725001506j:plain

 

日本に帰国してまもなく2か月が経とうとしている。この2か月にあったことについてはおいおい書いていきたいのだが、とにかく無事に東京での生活を再開したわけである。

 

さて、以前の記事でも書いたが、私は人間関係が得意な方ではない。特にアルバイトでの人付き合いは、パン屋で働いていた時代の思い出のせいで、まったくもって苦手なのである。それゆえ、帰国したあとの私は全く労働することなく、留学中に記事を書いて貯めたわずかな貯金を切り崩しながら、睡眠と麻雀と多少の音楽活動に勤しむクソニートとして暮らしていた。

 

しかし、貯金の底が見えてくるようになるのは思いのほか早かった。予想外の出費があったこともあり、私は想像以上に早く、何よりも嫌いなはずの労働の必要性に迫られたのである。私は仕方なく重い腰を上げ、人間関係に後腐れがなさそうな日雇いの仕事を探すことにした。

 

ところが、ここでもう一つの問題が登場する。頭髪である。

端的に言えば、今の私の髪は青色なのだ。こんな人間が働ける場所はかなり限られている。ティッシュ配りにしたってまともなところでは黒髪が基本のようだし、イベントスタッフもブラウンまで。試験監督は当然NG、引っ越しスタッフは体力に自信がない。

 

こうして消去法をしていくうちに残ったのが、工場でのアルバイトである。背に腹は代えられない。とにもかくにも行ってみよう。

かくして私は、1日中化粧品を箱詰めにし続けるという武者修行を開始したのである。

 

仕事はというと、正直なところ、あんなので時給1100円ももらっていいのか、というような代物であった。立ちっぱなしなのが少々つらいが、空調の効いた部屋で黙々と流れ作業をすればいいというのは、個人的にはかなり良い仕事であった。

 

しかし、慣れてくるとその単調さが仇となってくることに気が付いた。作業中に、とにかくいろんなことが頭に浮かんでくるのである。昨日のバンドの練習をドラムにすっぽかされてすごいやりにくかったなーとか、そういえば今度検便あるなー、うんこってどうやって取るんだろうとか、GLAYのニューアルバムの限定版2万5千円て高すぎだろ、でも欲しいなーとか、とにかくバラエティ豊かな考え事が次々と脳内を占領してくるのだ。

 

そんな中、私はある閃きに、突如として出会うこととなる。雑多な考え事の中でひときわの輝きを放つそれとは、こういうものであった。

 

大人になるということは、より物事を多角的に見られるようになることではないだろうか?

 

雷に打たれたような衝撃であった(むろん手は動いていたが)。「我思う、故に我あり」を閃いたときのデカルトは、さぞかしこんな気持ちだったのではなかろうか?工場の中で突如悟りを開いてしまった自分に、私は多少の陶酔と困惑を覚えた。

 

子供は、自分本位で当然の生き物である。自分が使いたいおもちゃは渡したがらないし、欲望は泣いてでも実現させる。これは生存のための本能的なものかもしれない。

一方で、精神的な意味での「大人」という言葉には、穏やかで、思慮深い人格がイメージされていると思う。感情的に泣いたり怒ったりせず、相手とうまく距離を取りながら生きている、そんな感じだ。では、この二者の間の隔たりはどのように埋まっていくのだろうか?

 

わがままな子供も、他人の気持ちを考えるよう教育されながら大人になっていく。その過程では、自分だけが悪者になる理不尽や、二者の間での葛藤を経験するだろう。そういう経験というのは、いろいろな人の言い分を鑑みて、一つの問題を多面的に考慮する行動を含んでいる。これを重ねていくうちに、自分の中にいろいろな人の視点が取り込まれて、自分の怒りと折り合いをつけたり、より多方面で満足度の高い妥協ができるようになったりする。これがすなわち、大人になるということなんじゃないだろうか?

 

デカルト、もとい私は、誰かにこの閃きを披露したい衝動にかられた。この大発見には、きっと賞賛の嵐が巻き起こるに違いない。ノーベル哲学賞がないのが惜しいくらいだ。

 

しかし、私はこれを、自分のブログにそっと吐き出すことを選んだ。「大人」として、友人たちの「そんなどうでもいい話に付き合わされたくない」という感情を考慮したのである。

 

私の日本記録

私の凡庸な人生で、唯一人よりずば抜けている記録がある。それは、アルバイトの連続不採用回数だ。その数、なんと15回以上である。

 

輝かしい記録が樹立されたのは、大学1年の春から夏、ちょうど今くらいの時期のことだ。新歓のビラまきの洗礼を受けたり、飲み会に初めて出たりと、初々しい一女としての生活が始まった時代である。アルバイトもほとんど初めてだったので、ワクワクしながらどこで働こうか考えたものだ。

 

周りの友達は、飲食やアパレルで働いている子が多かった。私も当たり前のように、飲食店や服屋の面接を受けたのだが、なぜか私に限っては怒涛のお祈りラッシュなのである。就活生ならいざ知らず、うら若き世間知らずの18歳には、永遠と続くかのような不採用は衝撃的だったのを覚えている。

 

すごく奇抜な見た目だったわけでもない。今でこそ黒金のツートンヘアーだが、当時は落ち着いた茶髪である。全国の大学1年生の平均的髪色を地で行く、超清純・チョコレートブラウン(ちょっとプリン)といったところだ。面接にもごく無難な服装で行っていたし、メイクもアイプチがひん曲がったり、唇が天ぷら食べた後みたいになったりしてはいたけれど、まあ一般の範疇だったと信じている。もし奇抜だった部分があるとしたら、顔面の造形くらいのものだ。しかし美人ばかりがバイトしているわけでもあるまいし、いくらマニア向け顔面とはいえここまで落ちまくるのも腑に落ちない。

 

15回以上というのはなかなかの数字のようで、縋るように「バイト 不採用 連続」とか検索しても、私ほどの記録保持者にはほぼ出会えなかった。「3連続で落ちました…」とか「5連続で落ちるのって普通ですか?」という質問が飛び交う中、私は燦然と輝く2ケタ記録を携えて、ネットの海を彷徨ったのである。むろん、私の心を支えてくれそうな情報は全く見つからず、「普通にしてれば受かるやろ」みたいな論調に気圧されただけであった。

 

f:id:hayasacaesar:20170517030559p:plain

 

普通とはなんなのか。18歳の私は、そんな哲学的問いに飲み込まれそうになっていた。しかし同時に、私はあることに気が付くことになる。

 

落とされるたび、私は強くなっている。

 

そう、私は面接で落とされるたび、履歴書を買い足すたび、自分の精神が強靭になっていくのを感じていたのであった。バイトを15回以上連続で落とされるなど、世間の大学生の何割が経験するだろうか?私は自分の作った記録で日本人の上位数%に入るという、これまでの平凡な人生にない稀有な経験をしているのだ。それが何であれ、誰よりすごい記録を持つって悪くないんじゃないか。そんな気持ちが芽生えたのである。そんな開き直りが功を奏してか、私はその後も順調にバイトに落ち続け、ようやく最初のバイト先に拾ってもらったのは7月のことであった。大1にして、求職歴は実に4か月近くである。

 

もし、2年前の私のように、バイトに落ちまくって落ち込んでいる大学生がいたら、声を大にして言いたい。

 

2ケタ回数以上連続で落ちてから落ち込め。話はそれからだ。

 

ちなみに現在の私はというと、立派な体たらく学生である。在宅ワークで微々たる収入を得つつも、根本的に労働に向いていないようで、睡眠時間をたっぷりととるニートチックな生活スタイルが確立されている。私を落とした面接官たちは、非常に見る目があるなと思う今日この頃である。

 

眉毛育成協議会

眉毛というのは、女性にとってなかなか厄介なものである。あらゆるメイクに関する事柄の中でも、眉毛にまつわることは多くの人を手こずらせているようだ。

 

もちろん私も例外ではない。進撃の巨人の奇行種似ではあるが、一応生物学上女性に分類されるので、人に会うときは顔面に盛大に塗り絵をして出かけている。顔面ペインター歴数年ともなれば、ほとんどの部分はそこそここなれてくるものだ。しかし、筋金入りの群を抜く不器用のせいもあって、眉毛はいまだにうまくいかないことが多い。

 

長らく、私の眉毛は一般的な細眉の範疇に収まっていた。少し前に空前の太眉ブームがあったが、太眉が私の垢ぬけない目鼻立ちとコラボした場合、限りなくオッサンに近似することは明らかであったので、流行りに乗りたい気持ちを抑え、断腸の思いで眉毛を剃り落とし続けていたのである(しかし不器用なので、我が眉毛が行儀よく左右対称になったことはほとんどなかった。微調整を重ねすぎて眉毛がほぼ縦幅を失った結果、安室奈美恵になりたそうなオッサンが鏡に映っていた日もある)。

 

I HAVE NEVER SEEN

 

さて、私の眉毛にはそんな歴史があるのだが、とある疑問が頭を掠めるようになったのは1週間ほど前のことであった。

 

自分の眉毛って、もともとどんな感じだったっけ?

 

私はふと気が付いた。長らく眉毛を剃り続けていたので、オリジナルの形や太さをすっかり見失っていたことに。それと同時に、私はこんな恐怖も抱くようになった。

 

もしかして、剃り続けた部分はもう、ちゃんと生えてこないんじゃなかろうか?

 

アマゾンや東南アジアでは、過度の伐採によって熱帯雨林が失われているらしい。もし、眉毛も過度の伐採で永久に失われることがあるならば、私の顔面の環境問題に直結する由々しき事態である。

 

目の上が砂漠化する前に、事態を確かめなければならない。

 

ちょうどこの時期は、学期の終わりで授業もなく、知り合いに会うことはほどんどない。眉毛を栽培するにはうってつけの時期である。私はその日から、眉毛を剃ることをやめた。

 

 

眉毛栽培を開始して2日ほど経つと、剃った部分が青くなってきた。さながらツンドラの高原といったところだろうか。しかし、ここまでは想定内である。今までは、こんなふうにわずかに芽生えた眉毛たちを、容赦なく剃り落としてきたきたのだなあという感慨に浸った。

 

4日目になると、眉毛たちは剃られないことを悟ったのだろうか、のびのびとその体を伸ばすようになった。その茂り具合は、河村隆一が佇んで歌っていそうな草原といったところである。私は、眉毛部分が不毛の地になっていなかったことにすっかり安心していた。

【PV】 河村隆一 / Glass

 

 6日目。眉毛栽培は順調に進み、私は自分の懸念が杞憂だったことを確信していた。私の眉毛の生命力は、思った以上に強かったのだ。そうだ、若いってなんて素晴らしいのだろう。剃ったところで、眉毛が生えなくなることはないんだ。どんなに造形に失敗しても、またいくらでも取り返せるし、何度でもやり直せる。眉毛とは、そういうものなのだ。

 

 

さて、今日は眉毛を育て始めて7日目にあたる。そして、今の私は非常に落胆している。「眉毛が剃ってもなくならないのは、ムダ毛をいくら剃ってもなくならないのと同じ理論である」ということに気付くのに、1週間もかかった事実に。

 

留学生活最大の危機の話

昨年の8月末に留学に来てからというもの、順調に単位を落としつつ、それなりに平和な暮らしを送ってきた。日本にいたころは実家暮らしだったので、留学が初めての一人暮らしとなったが、餓死などすることもなく、いたって平和な日々である。

しかし、そんな私の平穏な生活も、時には乱されることがあった。今回は、その中でも留学生活最大のピンチに陥った時のことを振り返りたい。

 

f:id:hayasacaesar:20170514040924j:plain

時は先月のある日、夕方ごろである。寮に遊びに来ていた友人を下まで送り、部屋に戻った私はある異変に気が付いた。

 

トイレのドアが開かない。

 

まさか、そんなことがあっていいのか?友達がどこか触ったのだろうか?一瞬にして頭を杉下右京モードに切り替えつつ、私はドアノブを捻ったり殴ったり舐めたりしてみたが、一向に開く気配がない。結局10分ほど格闘したが、すっかり閉じてしまった奴の心を動かすことはできなかった。

とはいえ、その時点での私はあまり焦ってはいなかった。私の住む寮は校舎のすぐそばにあるので、こう思っていたのだ。

 

いざとなったら、校舎のトイレを借りればいいや。

 

そう気楽に構えていた私は、買い物に行くなどして、いつも通りの夕方を過ごしていた。

 

ところで、私の部屋のトイレはシャワーともつながっていて、トイレに入れないということはつまりシャワーも浴びられないことになる。さすがにシャワーは校舎にないので、とりあえず友達に事情を話し、貸してほしいと頼む。親切な友達が申し出てくれたので、21時半ごろ彼女の部屋へと向かった。会話が盛り上がったこともあり、シャワーを浴びて彼女の部屋から出たころには、既に23時をまわっていた。

 

さて、部屋に戻った私は、シャワーを浴びられたことですっかり気が抜けていた。あとやることは、夜更かしをして寝るだけだ。明日、寮のスタッフにドアのことを報告しよう。そう考えた私はいつも通り紅茶を入れ、音楽を聴きながらパソコンの前に座り、夜のネットサーフィンを楽しんでいた。

 

さて、そろそろ寝ようかと思ったのは午前2時ごろである。寝る前にトイレに行っておくか。そう思って、私は深夜の誰もいない校舎へと向かった。

しかし、悲劇はここから始まる。

 

校舎の入り口に、鍵がかかっている。

 

想定外の事態である。押しても引いても、堅牢な鍵は開きそうにない。部屋からの道程で、鍵が入っていると思しき宝箱を見た覚えもない。しかし考えてみれば、夜間校舎に鍵がかかるのは当然だ。それを全く考えていなかったことを、私は深く後悔した。

 

どうしよう。校舎の鍵は、中にあるコンビニが開く朝7時までは到底開かないだろう。それとも、ダメもとで別の棟に行ってみるか?私はドアの前で、深夜の頭脳をフル回転していた。

 

さて、古来より、悲劇は重なるものであるらしい。泣きっ面に蜂とか、踏んだり蹴ったりのような言葉が長く残っているのも、その証なのだろう。びくともしないドアの前で佇んでいた私も、ほんの数分後、先人の言葉の重みを身に染みて知ることとなる。

 

まずい。さっき飲んだ紅茶が効いてきた…!!

 

紅茶といえば、その利尿作用は世界中で知られるところだ。私でさえ、その効果についてはよく知っていた。しかし日ごろ、トイレがすぐそばにある環境に慣れすぎたせいで、私は平気で就寝前に何杯もの紅茶を飲む人間へと退化していたのである。トイレに行けないだけでこうも平穏がかき乱されるとは、人間はなんと脆い生き物だろうか。

 

そんなことを考えている間にも、私の膀胱は確実に限界へと近づいていた。そして膀胱の軋みに伴うように、私の脳もここ近年最高の速度で回転していた。

 

こうなったらもう野ションか?深夜だし、さすがに誰も通らないだろう。

でもマーフィの法則というのがあって、絶対に人に会いたくない時に限って知り合いに会ったりするものだ。野ション姿を見られるなんて、女、ひいては人類としての尊厳に関わる。

誰かにトイレ借りるか?でも午前2時だ、連絡しても気づいてもらえる可能性はゼロに近い。

部屋に帰って、何かの容器にする?でもペットボトルとかないし、ビニール袋にしても、床に置いたらどうなるか分からない。しかも失敗したら悲惨だし、あまりにリスクが高すぎる。

 

そして私の脳は、一つの答えを弾き出した。

 

もう一度、トイレのドアを開けてみよう。

  

私は尿意を全身全霊で引っ込め、風のように部屋へと駆け戻った。トイレのドアは相変わらずの不機嫌ぶりだ。しかし、今度の私はやすやすと引き上げるわけにはいかない。どんなことがあっても諦めるものか、必ずドアを開けてみせる。それに、全力で戦った事実があれば、たとえ敗北しても後悔はない…。

そう心に決め、私は「ドアを開ける方法」と検索欄に打ち込んだ。戦いのゴングは、今鳴ったのである。

 ↓ここからのBGM

めざせポケモンマスター

めざせポケモンマスター

 

まずは、カードを使ってこじ開ける方法を試してみる。しかし、ラッチの形に合わないようでびくともしない。10分ほどの戦いののち、私は叫んだ。

 

「もういい!クレジットカード、戻れ!」

 

しかしここで負けるわけにはいかない。へとへとになったクレジットカードに代わり私が投入したのは、エレキベースの修理道具たちである。まずはマイナスドライバーを持ち出し、ノブの真ん中の穴に差し込んでみる。カチャカチャと回してみるが、相変わらずの膠着状態だ。しかしその間にも、私のBP(膀胱ポイント)は確実に0に近づいていく。私は再び叫んだ。

 

「もういい!マイナスドライバー、戻れ!」

 

これで開かなかったら、もう後悔はない。そう覚悟を決め、最後の望みを託して取り出したのは、修理セットに入っているけど用途不明の針金であった。マイナスドライバーと同じように、ノブに差し込んでかき回してみる。頼む、開いてくれ…!

 

 

奇跡の福音が聞こえたのは、それからほんの数分後のことであった。

 

カチャリ。

 

 

残りBP、わずか1。約9時間ぶりに見るトイレの中には、溢れんばかりの光が満ちていた。

 

 

さて、かくして戦いは無事勝利に終わり、私は留学生活最大の危機を切り抜けたのであった。しかし、あのときもし誤った選択をしていたらと思うと、身の毛もよだつ思いだ。

私の命を救ったあのちゃちな針金は現在、針金大明神として黄金の祭壇に祀られている。

 

見世物小屋のリテラシー

ネットニュースというのは結構暇つぶしによくて、ヤフーのトップページなどを延々と見てしまうことがしばしばある。有象無象のすぐ忘れるようなニュースも多いし、芸能ゴシップにすごく興味があるわけでもないのだが、ゆえに入り込みすぎることもない。だから、暇つぶし程度に見るのにはぴったりなのである。

 

そんなヤフーニュースだが、ニュースサイトとしての質は、控えめに言っても高いとは思えない。まず第一に、誤字脱字が異様に多い。ツールに1回かければすぐ出てくるような、ほんの簡単な間違いさえも直さずに出してくる。例えば、つい最近出ていたXのYOSHIKIに関する記事もなかなかのものだった。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

英語記事から早急に訳しているのだろうが、それにしても見出しの見分けづらさといい、句点のとっ散らかり具合といい、なんだかすごいことになっている。句点を2つ重ねとは、サーティワンばりのサービス精神である。

 

f:id:hayasacaesar:20170512223811p:plain

 

しかし、ネットニュースを見ていて、個人的に誤字脱字よりもっと気になる点がある。それは、釣り目的の記事タイトルの多さだ。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

いや、キレてないっす。大泉洋キレてないからね、読めばわかるけど。しかしクリックさせるのが第一なのだろう、こういう見出しをつけた記事はとても多い。嘘とは言えないギリギリのラインを突いた「釣り見出し」は、もちろんヤフーニュースに限らず、お堅いネットメディア以外ならたいていどこでも見かけるのではないだろうか。

 

ところで、こんなタイトルをよく見るようになって思い出すのが、かつてはどこのお祭りにもあったという「見世物小屋」のことである。

 

見世物小屋というのは、一言で言えば奇形の人とか、グロテスクなパフォーマンスとか、とにかく雑多な類のものをお祭りなどで展示する興業だ。私含め若い世代にはほとんど馴染みがないが、その独特なアングラ感には、確かに一種の魅力があるかもしれない。

 

f:id:hayasacaesar:20170512232237j:plain

 

さて、そんな見世物小屋の目玉だったのが「大イタチ」である。しかし、この文字を見て本当の大きなイタチを期待してはいけない。なにせ中に入ってみれば、そこにあるのは血の付いた大きな板、「大板血」なのだ。もちろん、先の写真にある「ヘビ女」とか「首狩り族」も同様で、聞いてイメージするようなものは出てこない。好奇心を刺激して客寄せをし、一種トンチのようなやり方で客の納得を取りつける手法は、ネットニュースの釣りと通じるものがある。

 

しかし、見世物小屋はそれでも商売として成り立っていた。その背景の一つには、そういう落差まで含めて娯楽として受け入れられていたことがあるだろう。実際、お金を払ってこのようなものを見せられても、本気で腹を立てる人はあまりいなかったらしい。それを思うと、そこまで含めて一つの様式美なのではないかとさえ感じられる。

 

そう考えると、日ごろネットニュースに触れる人間としては、見世物小屋の客のようなスタンスを持っていても損はないと思う。政治や経済のニュースならともかく、芸能ゴシップなどには、もっと精神的に遠巻きになってもいいのではないだろうか。釣られたら釣られたで笑えばいいし、驚くような内容だったら儲けもの、そんなくらいがちょうどいいと、最近感じるのである。